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木村拓也~読売ジャイアンツ~ [選手紹介(OB)]

またも悲しい知らせが届いてしまいました。
巨人の木村拓也コーチが亡くなりました。

木村拓也は、宮崎県出身で、
宮崎南高校から俊足強肩の捕手として、
1990年にドラフト外で日本ハムファイターズに入団します。
1992年には外野手に転向し、徐々に出番も増えていきました。
思えばこれがユーティリティープレーヤーへの第一歩でした。

1995年から広島カープにトレードで移籍し、
内野の守備にも挑戦します。
しかし出場機会に恵まれず、1996年にはスイッチヒッターに挑戦し、
またしても徐々に出場機会を増やしていきます。
1997年にはショートの守備にも挑戦し、
1999年には一年で一塁と投手以外の全てのポジションをすべて守り、
2000年には136試合に出場し、
バッティングでも規定打席に到達するなど、存在感が増してきます。
その後は広島にとっても攻守の両面で欠かせない存在となり、
2004年にはその器用さと守備力を買われて、アテネ五輪の代表に選ばれます。
しかしその後は広島では腰の故障の影響と、
チームの若手育成の方針もあり、出番が減ってしまいます。
そして2006年のシーズン途中に、巨人にトレード移籍することになります。

巨人では移籍後すぐに一軍登録され、
移籍先でもユーティリティープレーヤーとしての存在感を発揮します。
層の厚い巨人の中でも、2007年、2008年と100試合以上に出場し、
巨人でも欠かすことのできない選手となります。
2009年には、若手の台頭で若干出番は減ってはいましたが、
スーパーサブとしての存在感は抜群で、
ベンチ入りした最後の捕手が負傷退場という緊急事態に、
10年ぶりに捕手として出場し、1イニングを見事に守りきりました。
そして日本シリーズでもスタメン出場を果たすなど、
衰えない存在感を発揮していましたが、シリーズ終了後に引退を発表しました。

そして2010年からは巨人の内野守備走塁コーチに就任し、
第二の野球人生を歩み始めたばかりでしたが、
シートノックの最中に突然意識を失って倒れ、
くも膜下出血と診断され、5日間ほど意識不明の状態が続いていましたが、
4月7日の早朝に、帰らぬ人となりました。

木村拓也は選手時代、
SMAPの木村拓哉と同姓同名で同い年ということで、
番組で対談し、拓哉に「今日の試合でホームランを打ってくださいよ」と言われ、
本当にホームランを打つなど、派手さはないながらに、スター性のある選手でした。

また、以前、広島市民球場に観戦に行った時、
たまたま木村拓也のスパイクが電光掲示板で紹介されていて、
広島市民球場の特性を考えて、足先の刃だけがスタートをきりやすいように金属になっていて、
スピードが乗ってきたら走りやすいように他の部分はゴムになっていました。
私は木村選手の道具へのこだわりを強く感じた記憶があります。
また、予備も含めて5種類のグラブを常に持ち歩いていたというのも、
ユーティリティープレーヤーとしてのプロ意識を感じさせます。

木村拓也以前にもユーティリティープレーヤーはいましたが、
この「ユーティリティープレーヤー」という言葉を世間に知らしめたのも、
この木村拓也だったように思います。
ただの「守備が上手くてそこそこ打てる控え選手」から、
ユーティリティープレーヤーとしての存在価値を見出し、
ファンにまでその重要性を教えてくれたこの木村拓也の活躍は、
ある意味革命的とまで言っていいほどの功績だったかもしれません。

また、木村コーチには、3人のお子さんがいて、
一番下の子は2~3歳くらいとまだ小さいそうです。
カープ時代に「娘とデートできるようなお父さんになりたい」と言っていて、
いいお父さんになりそうだな、と感じた記憶があります。
これからご家族は大変だと思いますが、
今回の訃報に対して、選手を代表して阿部主将が、
「お子さん3人、できれば僕ら選手で少しでもサポートしていきたい」
とコメントしていました。
私はこの言葉にとても感銘を受けました。
選手たちもシーズン中で大変な時期に加え、戸惑いや悲しみもあるでしょうが、
コーチのご家族を思いやる姿勢、素晴らしいキャプテンだと思います。

今年は日ハムの小林繁コーチやオリックスの小瀬など、
現役のコーチや選手に悲しい話題が続きますね。
もう絶対にこんな話題は聞きたくありません。

木村コーチにはこれからも日本球界を見守っていてもらえれば、と思います。
木村拓也コーチのご冥福をお祈り致します。



小林繁 [選手紹介(OB)]

1月17日、衝撃的なニュースが飛び込みました。
心不全による突然の死去。
本当に驚きました。

私自身、現役時代は知らないのですが、
「空白の一日」という言葉は野球ファンにはあまりにも有名です。
1976年から引退する1983年まで、
8年連続で二桁勝利を挙げるという素晴らしい投手でした。

江川投手の巨人入団をめぐり、
巨人から阪神に半ば理不尽なトレードで入団した翌年は22勝で最多勝、
その翌年からも二桁勝利を続けたり、
現役最終年、「15勝できなければ引退する」と言って、
13勝と届かないながらなかなかの好成績だったにも関わらず、
宣言通り31歳にして引退するなど、
男気のある選手だったことは今、エピソードを見るだけで伝わってきます。

そして1997年には近鉄の投手コーチとして、
2001年には梨田監督の下、リーグ優勝も経験しました。

2008年には日ハムの二軍監督に就任し、
多くの投手を一軍で活躍できるまでに育て上げました。

ファイターズファンの私としては、
やはり近年の日ハムの二軍コーチとしての馴染みが深いのですが、
私自身、特に応援している江尻投手が、
右肘の手術からの復帰を目指している時、
サイド気味のフォームに改造し、
見事一軍復帰を果たしました。
江尻投手の力のあるストレートが好きだった私は、
最初はサイド転向は江尻投手の良さを失わせてしまうのではないかと、
余計な心配をしたものですが、
球速はほとんど変わらず、一軍に戻ってきてくれたので、
小林コーチの手腕をあらためて実感した記憶があります。
昨年目覚しい活躍をした糸数投手や金森投手も、
二軍で小林コーチに熱い指導を受けていたそうです。

小林コーチはその手腕を買われて、
来シーズンからは一軍の投手コーチに就任し、
コーチとしての活躍が期待されていました。

小林コーチは日本ハム社のイベントに亡くなる前日まで元気に出席されていて、
梨田監督もその日に「お先に失礼します」という会話をされたのが、
最後の会話になってしまったそうです。

まだ57歳という若さで亡くなってしまった小林コーチ。
小林コーチのおかげで一軍に定着した投手も少なくないはずです。
そういった選手たちも小林コーチと1軍で共に戦うことを楽しみにしていたことでしょう。
私以外のファンも大きな期待を寄せていたに違いありません。

小林コーチには、これからもファイターズを温かく、時に厳しく見守っていただきたいです。
心よりご冥福をお祈り致します。



石田文樹~KKコンビに勝利したエース~ [選手紹介(OB)]

80年代の高校野球で最もファンの印象に残っているのがKKコンビ(桑田投手、清原選手)でしょう。
この時代のPL学園はKKコンビをはじめ、元阪神の片岡選手、中日の立浪選手、元巨人の橋本清投手、元横浜の野村投手など、一流選手が揃っていて、圧倒的な強さを見せていました。

そのPLを決勝で破ったのが取手二高でした。そのチームのエースだったのが元横浜ベイスターズの石田投手でした。
全盛期のPLを破ったというのは今でも伝説のように語り継がれています。

その石田投手が15日、亡くなりました。
ベイスターズを引退して以来は、バッティングピッチャーとしてもチームに貢献していました。
同い年の選手が現役で残っていることを考えると、早すぎる死が残念でなりません。
ご冥福をお祈りします。



稲尾和久 [選手紹介(OB)]

歴史的な大投手が亡くなりました。
語り尽くせないほどの記録を残した西鉄のエース稲尾投手ですが、その中でも有名なのは、1958年の読売との日本シリーズです。3連敗した西鉄は、1、3戦で先発している稲尾投手を残りの4戦連続で起用し、逆転優勝します。7試合中、6試合に登板、うち5試合先発、4試合完投で、しかも第5戦ではサヨナラホームランも自身の手で打っています。
個人記録も、新人王、最多勝4回、最優秀防御率5回、最多奪三振3回、MVP2回、ベストナイン5回など、多くあり、数々のパリーグ記録も持っています。

球史に名を残す名投手だけに、非常に惜しい人が亡くなったという気持ちです。
これからの野球界に彼を超える存在が現れることを楽しみにしたいと思います。



仰木彬~永遠の名将~ [選手紹介(OB)]

今朝、たまたま早くに目が覚めて、パソコンをつけてみると、とてもショッキングなニュースを目にしました。なんと、今シーズンまで新球団オリックス・バファローズの監督を務めた仰木彬氏が亡くなったというのです。
70歳という年齢の監督は、もちろん球界最年長でした。

私は、この仰木監督の選手時代は、詳しくは知りませんが、監督としての活躍は、ずっと見てきました。まず、1988年に近鉄の監督に就任して、あの野茂英雄投手を1年目からエースとして起用し、球界を代表するピッチャーに育て上げました。他にも、近鉄時代には、吉井理人投手や、中村紀洋内野手もこの監督に育てられています。1989年には、近鉄でリーグ優勝を遂げます。
そして、1994年にはオリックス・ブルーウェーブの監督に就任します。これは有名な話ですが、あのスーパースター・イチローの素質を見出し、活躍させたのがこの人です。鈴木一朗という一見目立たない、スター性のなさそうな名前の選手の登録名を「イチロー」とカタカナ表記にすることで、一気に人気者にしました。(そのアイデアを考案したのは新井コーチだったみたいですけどね。)1995年には、オリックスでもリーグ優勝し、その翌年には、長嶋監督の巨人を倒し、日本一に輝きました。オリックスでもメジャーリーガーを育てていて、イチロー選手、田口壮選手、長谷川滋利選手らはみんな仰木氏を師匠として公言しています。
2004年、球界を揺るがせた合併騒動と新規参入。その中で生まれた新球団オリックス・バファローズ。パリーグファン、特にオリックスと近鉄ファンにとっては、ショックの大きい合併となりましたが、そのどちらの球団でもリーグ優勝の経験がある仰木氏の監督就任は、誰もが認めるところでした。
このような輝かしい監督としての経歴は見事です。いろいろと調べていて分かったのですが、仰木氏の監督した計14年間で、5位以下になったことはないんですね。4位も、3回だけ。あとの11年はすべてAクラス入りを果たしています。
今シーズンは、4位という成績で、来年以降のチームの発展が期待され、球団側は仰木監督に続投要請をしていたようですが、体調不良のため、辞任することになりました。辞任以降は、SA(シニアアドバイザー)として今後もさらに球団の発展に力を貸す予定でしたが、その矢先の出来事でした。

本当に惜しい人を亡くしました。今は悲しい気持ちでいっぱいです。
彼の名将ぶりはいつまでも語り継がれることでしょう。
ご冥福をお祈りします。



福本豊~世界の盗塁王~ [選手紹介(OB)]

通算1065盗塁、シーズン最多盗塁106という記録を持った選手がこの福本豊さんです。

福本選手は1969年~1988年の間、阪急ブレーブス(現オリックス)でプレーしました。一番の特徴はやはり盗塁で、相手投手のモーションを盗んで次の塁を奪う姿勢はまさに世界の盗塁王そのものでした。12年連続の盗塁王というものすごい記録も持っています。

で、私はもともと足の速い選手が好きなので、福本選手はもちろん好きなのですが、それ以上に、この人のキャラクターが大好きです。彼は解説者として、大阪のABC放送で解説をやっています。その解説者としてのコメントが、とても庶民的で面白いと評判なのです。
とあるラジオのゲストがベース漫談芸人のはなわさんで、そのラジオで作った福本豊伝説という歌を歌っていました。その歌詞がとても面白かったので載せてみます。

○解説の男~ABC福本

伝説の男 解説の男 今日は世界の盗塁王・福本豊の伝説を教えよう

野球中継に出た福本豊は9回表までゼロが並ぶスコアボードを見て
ボソッとこう呟いた 
「たこ焼きみたいでんな。」
…そうですか??

さらに野球中継に出た福本豊はようやく1点が入ったスコアボードを見て
またまたこう呟いた
「たこ焼きに爪楊枝がついたね。」
…そうですね。

さらに野球中継に出た福本豊は
「この投手、どのように打ち崩したら良いですかね?」と聞かれてあっさりこう答えた
「対戦したことないから分からん。」
…そんな言い訳ありかよ~

さらにさらに野球中継に出た福本豊は
「今のプレーはいただけませんね、福本さん?」とフラれて普通にこう答えた
「ん?ごめん、見てなかった。」
…ちゃんと仕事しろ~

さらにさらに野球中継に出た福本豊は
「4点先制された阪神タイガースですが、どうやって攻めていったら良いですかね」と聞かれて真面目にこう答えた
「まず4点取り返さなアカン。」
…だからどうすりゃいいんだよ~

伝説の男 解説の男 盗塁成功率は78パーセント でも初めての盗塁は失敗

もっとーもっとーふくもっとー 馬よりも速い
もっとーもっとーふくもっとー 逃げ足は遅い

野球中継に出た福本豊は
「5時間が経過しました。大変な試合になりましたね?」と聞かれて真面目にこう答えた
「加古川より向こうの人はもう帰られへんね。」
…お客さん思い

野球中継に出た福本豊は雨の中阪神の秀太がフォアボールで出塁したとき呆れてこう言った
「秀太は選球眼は良いけど頭悪い。」
…辛口コメント

さらに野球中継に出た福本豊は
「今日は北海道のゲームですが、何か一番おいしかったものはなんですか?」と聞かれて上機嫌にこう答えた
「女が一番や…なんでやねん!!」
…ノリツッコミ

さらにさらに野球中継に出た福本豊は
「阪神が今日にも優勝ということで、マスコミが700人も来ているそうです。」と言われて迷惑そうにこう言った
「どうりで、食堂入れなかったわ。」
…ご用達??

世界の盗塁王になった福本豊は
「なぜ国民栄誉賞を辞退したのですか?」と聞かれてキッパリこう言った
「そんなんもろたら立ちションできひん!」
…今は立ちションしほうだい??

伝説の男 解説の男 山田投手の引退式で上田監督がスピーチ
「去る山田、そして残る福本」
と言うはずだったのに
「去る山田、そして福本」
と言ってしまったから引退するハメに…

もっとーもっとーふくもっとー 大鉄高校
もっとーもっとーふくもっとー 愛車は中古車
もっとーもっとーふくもっとー テレビはAIWA
もっとーもっとーふくもっとー 夜釣りが大好き
もっとーもっとーふくもっとー メアドがtourui@
もっとーもっとーふくもっとー モザイクが見える
もっとーもっとーもっともっとー そんな福本よこれからも解説をミスってくれ~~



藤井将雄~癌と戦った若頭~ [選手紹介(OB)]

野球にはグラウンド以外でのドラマがたくさんある。

プレーオフ第2ステージの第二試合があった10月13日は藤井将雄投手の命日でした。
1994年、ドラフト4位でダイエーに入団し、1999年の優勝には、中継ぎとして大いに貢献しました。しかし、彼は肺がんという大きな病気に襲われてしまい、入院することとなります。2軍で調整しながらの闘病生活でしたが、それも報われず、31歳という若さでこの世を去っていきました。

チーム内でもとても信頼があったらしく、亡くなる直前には「みんなに会いたい」と言って、チームメイトがみんなでお見舞いに行ったそうです。
ホークスが優勝すると、背中に「FUJII15」と書いてあるハリー(ホークスのマスコット)のぬいぐるみを胴上げしていて、それを見るたびに胸が熱くなります。
藤井投手の背番号15は、今、誰もつけておらず、永久欠番にすることも検討しているらしいです。確かに、プロでプレーした年数は少なくても、それだけ信頼のあった選手。誰も文句はないと思います。

野球ファンの中では今も、藤井投手は現役投手として投げ続けているのです。



王貞治~世界のホームラン王~ [選手紹介(OB)]

記念すべき初の選手紹介は、誰にしようかさんざん悩んだあげく、この方に決めました。
個人的には、偉大な野球選手ベスト5のうちの一人です。他の4人は時々変わりますが…

なぜ偉大なのかは、理由は多々ありますが、やはり世界のホームラン王になったということでしょう。
彼のプロ通産868本というホームラン数は、メジャーリーグでもいまだ達成した人のいない数です。
最近、元巨人(あえてこう呼びますが)の清原が500号ホームランであれだけの騒ぎになったのだから、この868という数字がいかに凄いかわかるハズです。
まさに凄いの一言!

彼は、病気の子供を勇気付けたり、いつも真面目に練習したりと、スポーツマンの鏡でした。

そんな王貞治、今はパリーグの常勝軍団ソフトバンクホークスの監督ですが、ソフトバンクが強かったのではなく、王監督が強くしたのは言うまでもありません。1999年、ダイエーホークスとしては初の優勝以来、ホークスはパの盟主として君臨することになるわけですが、それまでは常にBクラス。良くて98年の3位(オリックスとタイ)であったのですから、王監督がいかに名将であるかがわかると思います。王監督は、巨人の監督を辞めさせられ、その後ダイエーの監督となって、見事に巨人を見返したのでした。

王監督の「ファンを大切にしよう」という姿勢が、選手みんなに浸透しているから、ソフトバンクの選手はファンに愛されているし、ファンサービスにも定評があるんでしょう。

というわけで、尊敬しています、王貞治。

ソフトバンクが強すぎて、パリーグが面白くないという意見を友人から聞きました。確かにそれももっともな意見です。ただ、それはソフトバンクが悪いのではなく、他球団がもっと頑張らねば。ということ。
どんどんレベルを上げて、より面白い野球を見せてほしいものです。



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